今井田勲と「ミセス」
「ミセス」創刊者 今井田勲
60年間続いた「ミセス」が休刊となる。
創刊したのは種子島出身の今井田勲である。
60年間続いた「ミセス」が休刊となる。
創刊したのは種子島出身の今井田勲である。
60年間続いた婦人誌「ミセス」が、2021年3月5日発売の4月号で休刊となる。
「ミセス」を創刊したのは種子島出身の今井田勲である。
今井田勲は、大正4年(1915)8月1日、
父・今井田嘉之助が教師をしていた金岳小学校のある口永良部島で生まれた。
大正9年、勲が5歳から小学入学する迄、父は島間小学校の第13代校長を務めた。大正1
1年11月に父・嘉之助は南種子町の助役(昭和4年5月迄)となる。
その間、勲は7~14歳。その後、種子島高校、日大芸術学部に進学。
昭和11年主婦の友社に入社した。戦中・戦後は下記略歴に。
本と人が大好きだったと聞く今井田さん、
イボンベー(ツルソバ)を食べていた幼少期の今井田さん、
中学校では今井田榕舟(榕樹の舟)を名乗り、キビナゴが大好きだったらしい。
種子高創立50周年の講演をし、本籍を変えなかった今井田さん、
人を怒ったことがなく、名編集長と呼ばれた今井田さん、
創刊した「ミセス」は全盛期80万部に、その勢いで「銀花」を創刊した。
「装苑賞」を創設し、高田賢三・コシノジュンコ・山本寛斎らを輩出した。
ピーエル・カルダンを日本に紹介し、海外との橋渡しをした。
日本のファッション界の礎を築いた種子島出身の今井田勲さんである。
■略歴
今井田勲は1915年8月1日生まれ。
本籍は南種子町中之下3000番地(下中・郡原)である。
年少より文学志望、長じて編集者を志し、主婦の友社記者となる。
戦中は大東亜出版文化(株)へ転じ、応召、ラバールにて捕虜となる。
収容所においても、持ち前の編集者魂からガリバン雑誌「かがみ」を発行、
戦後復員して「婦人の国」を創刊。「婦人書房」経営の後、
1951年、文化服装学院出版局(現・文化出版局)の「装苑」編集長となる。
1956年、「装苑」創刊20周年を記念して「装苑賞」を創設する。
その後「ハイファッション」「ミセス」「銀花」などの雑誌を創刊、編集長を兼ねる。
1960年「ハイファッション」創刊~2010年(50)
1970年「銀花」創刊 ~2010年(40)
1961年「ミセス」創刊~2021年(60)
1986年3月、財団法人衣服研究振興会より第7回衣服文化賞を受賞。
1987年3月31日、文化出版局局長を辞任。
1988年7月、学校法人文化学園顧問となる。
1989年6月24日、入院先の慶応病院で肝不全のため死去。享年73歳。
※詳細は、2014年発売「ミセスの時代」江刺昭子/現代書館に。